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第一章 霊的生活
「霊的」(スピリチュアル)という言葉は、具体的な何かを指している言葉ではないので、「愛」とか「神」とか「善」などといった言葉と同様、様々な人によって様々な意味で使われている言葉の一つといえます。例えば「善」という言葉は、人がそれを浅いレベルで体験したか、深いレベルで体験したかによって。狭い意味にも解釈されますし、広い意味にも解釈されます。同じように「霊的」という言葉も、とても深い意味がある場合もあれば、わずかな意味しかもたない場合もあり、まったく無意味に使われている場合さえあるのです。
霊的生活に関心のある人は誰でも、「霊的」という言葉に当たる何かが自分の中に確かに存在するのか、それとも、単にそれは自分以外の人達によって使われているだけの言葉であって、自分自身にとっては、自分の個人的な体験に基づくことのない単なる概念、つまり理論上の観念にすぎないものなのかということを見きわめてみる必要があります。
一方「愛」という言葉については、私達の誰もが自分の個人的な体験に基づいて使っているのだと主張することができます。というのも私たちは誰でも何らかの形で愛を経験しているからです。それは限られたものであったり、薄っぺらなものであったり、断続的なものであったりするかもしれません。しかしそれがどういうものであったとしても、その経験が私たちに、何か別の種類のもっと大きな愛をほんのわずかでもか今見せてくれる助けとなるのです。
私たちの多くにとって、「霊的」という言葉は、「神」という言葉に似ています。それは多くの矛盾と幻想を含有し得る言葉であって、私たち自身の隠された願望とか性向に従って、様々に解釈できる言葉だからです。
深刻でなかなか解決しない問題に悩んでいる人がいたとします。その人は孤独であったり、何をやっても駄目だという気分に陥ったりします。そうしてその人は、そうした重荷に押し潰され、幻滅の悲哀を味わう中で、いわゆる霊的なものに救済を求めようとします。
もしも彼が物質世界において万事うまくいっていたなら、何も他に道を求めようとはしなかったでしょう。ですから、彼の外見上の霊的なものに対する憧れというのは単なる逃避に過ぎず、「霊的」という言葉によって彼が期待していることと言えば、せいぜい「この苦しみに満ちた俗世の生活から離れて、ずっと待ち焦がれていたもっと良い生活ができるようになるだろう」ということぐらいです。
そのほかに、その人が属する社会の条件付けなどによって、一日のうちの一定時間を霊的な利益をもたらすと教えられている宗教活動に費やしている人達がいます。すなわち何百万ものヒンズー教徒や、仏教徒やキリスト教徒やその他の宗教に属する人々です。彼らは、その内的意義についてほとんど考えることなく、祈祷を繰り返したり礼拝に参加したりしています。
こうした条件付けというのは、その社会が用意する鋳型のようなものであって、そこに住む人々は、すぐにそれにはまりこんでしまいます。そうして、その社会の状況が変わったとしても彼等はまた別の鋳型に、ごく自然にはまっていきます。つまり、彼らは、本当の意味で、霊的なものによる生活をしているわげてはないのです。ただ、一番安易なことに同調して、周囲の人に期待されることをしているだけなのです。
霊的なものの追求はまた、今後起こり得る不幸に備えての保険であるかもしれません。
この場合、その追求は心の奥底に潜んでいる不安を表現しているだけです。それはある意味での“投資”であって、ビジネスマンが苦境に陥ったときのことを考えて用意しておく対策のようなものかもしれません。要するに、人は悪いことをすればするほど、あるいは、この世の楽しみに耽れば耽るほど、別の世界に安全な道を敷いておく必要を強く感じるものなのです。
こんなわけですから、霊的な生活を営みたいと思う人とは誰でも、自らを試験台に乗せて、その動機を調べて見なければなりません。これらの隠れた動機というのは暴露されたくないので、なかなかその姿を見せようとはしません。しかし探求者が、そうした惑わしに身をまかせていれば、彼が求めている光明を見いだすことはないでしょう。ですから探求者は、自分が本当に霊的なものに従っていきたいと願っているのか、あるいは、逃避や安易な同調や将来の保証といったものを求めているのかを、自ら調べてみなければなりません。
霊的なものの追求が本物でないとその人と生活のほんの一部分しか霊的なものとはならないでしょう。それは、彼の生活の表面的な部分に限られてしまい、彼の行動もまた、皮相的なレベルのものとなってしまうでしょう。
つまり彼は、自分が霊的だと思いたがっている活動の外見的な部分にしか関心を持っていないのです。あるいはその人は、霊的と呼ぶには程遠い世俗の事柄に大部分を明け渡していながら、残りのほんのわずかかな部分を、ある種の霊的な実践に捧げているかもしれません。
こういう人は、教会へ行ったり、日々の祈祷を行ったり、わずかな時間だけ瞑想をおこなったりしてはいますが、彼の生活の主な部分はこういった実践とは何の関係もなく、こうした実践によって何の影響も受けていないということになります。
霊的なものの追求は部分的なものであってはならず、一心不乱のものでなくてはなりません。それはまた、自己中心的な探求であってはならず、自己本位を脱した熱意ある探求でなくてはなりません。『大師のみ足のもとに』に次のように書かれています。
「すべての条件の中でも愛が一番大切です。人の内に愛がたいそう強いときには、愛はその他の条件をみな習得させてくれます。愛がなければその他のものを全部得ていたとしても、決して十分ではありません。愛とは、生と死との輪廻から解放されたいという強い願いとか、神と一つになりたいという強い願いというようによく説明されています。けれども愛をそんなふうにとるのは自分本位に聞こえますし、また愛の意味をほんの少ししか表していません。
愛とは、願いというよりもむしろ、意志とか決心決意ということです。この決心が他のどんな感情も残る余地のないほどに、あなたの性質の全部を満たさなければ、愛の結果というものは生まれません。愛とは本当に神と一つでありたいという意志なのです。あなたが悩みや苦しみから逃れるためにではなくて、神を深く愛するので、神と共に働き、神がされるように働きたいから神と一つになろうとするならば、完全に利己的なことを離れ、完全な愛で満たされていなければなりません。
仏陀の生涯は光明を見いだそういう決意についての素晴らしい模範例です。仏陀のその決意は、多くの人々に対する慈悲の心を源泉としています。仏陀は、病気、死、堕落、苦痛、残酷な行為、そして無知などに悩まされている悲しい世の中を見ました。仏陀はそれをたいへん悲しく思い、世界のために自由をもたらす光を探求したのです。
そういうわけで、霊的光明を見出そうとする決意は、自己の向上とか、何かで成功するための新しい方法としてではなく、他人に対する深い思いやりと、すべての人のためになるようにという心からの願いから出発しなけれぱなりません。
求道者は、多くの修行者がそうであったように、世の中に無関心であったり、避世的であったりしてはいけません。
また俗世に飲まれてしまってもいけません。この世の苦しみは、すなわち求道者の苦しみであってそれを無縁のものとしてはませんか。これらの苦しみは、憎しみ、残酷な行為,闘争、孤独、羨望、あるいは野心などによって引き起こされます。このようにして、何百万という人々が数えきれない年月を、土地や金や、財産や名声や権力を求めて苦闘しながら生きてきたのです。しかし、これらのものは手に入れる価値があるのでしょうか。
野心や憎しみの原因は何でしょうか。どうして孤独があるのでしょうか。人生の意味は何でしょうか。こういった問いかけやその他の多くの疑問が、それを問う者自身の人生の観察から生まれてきます。こうした問いかけや探求は、表面的な考察や他の人との見解に基づいてなされるべきではありません。識別力が照らし出す明晰(めいせき)さというのは、人が自分の人生を深く研究する労をとったときにこそ生じてくるものなのです。そうして、ここに霊的な道のスタート地点が記されるのです。
本質的なことを見分けるためには、明晰(めいせき)な認識力がなくてはなりまぜん。明晰さがあると、私達の悩みの根本的な原因は利己心にあるのだということがわかります。あるいは暴力行為を見た場合にも、その原因となるものがすべての人間の中に潜んでいることが見えるようになります。求道者の視点は顛末なものから基本的なものへ、表面的な事実からその根源へと移っていかなければならないのです。
すべての人のためになるようにという深い配慮と明晰さがあって始めて、探求はまともに始められます。霊的なものとは何であるかを見出そうとすることそれ自体が、霊的生活の始まりなのです。というのも、人生の大いなる真実は、外面的な事実にではなく、意識のさまざまな次元にるあからです。調和、愛、善、平和、などは、人が石や車をそれと知るような具合には、知ることはできません。石や車というのは、その形や色や感触やその他の特徴を感知したり、記憶に留めたりすることのできる物体です。愛は、外界に存在するそのような物体ではありません。愛を知るためには、「感じること」、そして「愛すること」の他には方法はありません。そして愛は、その人自身の本質の中にこそ見出されなければならないのです。
霊的なものとは何であるかを知るためには、自分自身の中に霊的なものがなくてはなりません。霊的生活とは、さまざまなことを行うことにあるのではなく、内的変容、つまりある種の精神的な境地に達することにあるのです。人は自らを理解することによって、そのような境地に達するようになります。自らを理解するということは、自分の中に起こっていることを観察するということです。観察することによって、自分の物質的な、あるいは世俗的な生活に属するすべての性質を浄化しなければなりません。すなわちそれが何であるかを見ることによって、それらの一つ一つを取り除いていくわけです。
世俗的な生活と言うのは、物質的なものとの肉体的なあるいは精神的な接触によって成り立っているというわけではありません。物質はどこにでもあるのであって、それから逃れることは不可能です。従って、本質的には、世俗的な生活というのは、単に物質と接触していることについて言っているのではなく、それを所有する場合の姿勢について言っているのです。所有欲があるときとないときとでは、私たちの、物とか人とか思想とかとの関係は大きく違ってきます。事実、所有欲に基づいた関係というのは、本当の関係ではありません。なぜなら、所有欲でいっぱいの心には、真の重要性などつかまえることはできませんし、自分の役に立つかどうかということばかりに心を奪われて、物事の本質的な価値などは見失われてしまうからです。
ですから、世俗的な世界から霊的世界へと旅立ちたいと思うならば、物を手に入れたいとか、所有したいとかいう貪欲は、完全になくさなければなりません。心は具体的なものであれ、あるいは霊的なものであれ、何ものにも執着しないことを学ばなければまりません。そして、無所有は、内的にも外的にもトータルなものでなくてはならないのです。
物質的生活、つまり世俗的生活というのはまた、自分の意思を他人に押しつけるという形を取ることもあります。そこには自分の考えや興味が広く受け入れられて、まわりの状況や人々や物事などが自分の考えに従ったり、それによって形づくられたりしなければ気が済まないというあの感情も入ってきます。この根深い権力欲が行き場を失うと、それが暴力に変わり、その結果として、多かれ少なかれ、この世には暴力が横行することになってしまうのです。一口に暴力といっても、戦争とか殺人とか、生命に対する傷害といったものばかりをいうのではなく、妻や夫や子供に対する専制の形を取った暴力とか、鋭い言葉や冷淡な言葉づかいなど、いろいろなものがあります。暴力がない状態というのは、他人を支配する立場にいるという感覚も権力欲もない状態という意味ですが、これは、俗世から離れていく過程において現れてくるものなのです。
すべての人は常にどうしたらこの世を満足ゆくものにすることができるのか知ろうと求めています。人は当然のように、人生が自分に、楽しみ、安全、永続する満足感、愛情、あるいは認めてくれることなどを提供するべきだと要求しています。
これを、ほかの人の心の状態というだけでなく、自分自身の心理の一部でもあるのだということに気づくには繊細で隔たらない自己観察が必要です。世俗の生活を超越するということは、何かを要求することから実質的に開放されるということなのであって、喜びであれ、悲しみであれ、求めることなく与えられるものに満足するということを意味します。
何かを求めてそれが与えられることに満足するというのは、俗世のやり方です。カルマ(因果応報の法則)に対しても神に対しても、何も求めず何事にも満足の気持ちを持ちつづけるのが、その人が俗世から開放されていることの徴(しるし)となるのです。
自分自身や環境や人々や物事などを、今とは違ったものにしてほしいという要求をしたりせず、あるがのままに受け入れることができれば、見栄を張って人を欺いたり、偽ったりせず、自分自身をだましたりする必要もなくなります。
『大師のみ足のもとに』に「決して目立ちたがろうと思ったり、賢そうに見せようと思ったりしてはならない」とあります。といえうのは、自分が実際の自分とは違って見えたり、あるいは、自分を事実と違うようにみせようとすることは、世俗の生活の幻影に巻き込まれていることになるからです。
世俗を拒もうとすることは、すべての思考と言葉と行動において事実を体現しなければならないのです。
人の心が陥りやすい欺瞞の一つに、ある事実が心の中に落としている影(イメージ)との混同というのがあります。つまり、その影の方が強くなりすぎて、実体の方が背後に退いていってしまい、イメージと実体とが取り違えられてしまうことがあるのです。事物の記憶は目の前に存在するものに対する感覚を曇らせてしまいます。性やアルコールや食物やその他の感覚的快楽に対する常習癖は、絶えずそれらを反芻(はんすう)する記憶から生まれます。放蕩、中毒、習慣的機械的衝動などといったものすべてがこの物質的世界を作りあげているのです。
心(ハート)や知性(マインド)が暴力、虚偽、要求、放蕩などをすてたとき、世俗的、あるいは物質的世界といったものはその姿を消します。かくして、非物質的、非世俗的な霊的世界を経験することのできる汚れのない純粋な境地に達するのです。仏教の五戒、キリスト教の律法、ヨガの教えといった古今東西の霊的方法に関する真の教えはすべて同じことを教えています。すなわちそれは、放棄することです。
本当の放棄というのは、一回だけの劇的な行為のことをいうのではありません。それは、世俗的な考えや動機や記憶、すなわち猫をかぶる気持ちとか、意地悪な衝動とか、ちょっとした執着とか、快楽を思いおこして思い出に耽ることなどを、日々の生活の中で常に拭い去っていく営みのことなのです。
これらすべてを放棄するということは、自己からの開放を意味します。充足されるべき目的をもった分離的な自己という幻影をつくり出しているのは執着とか記憶です。心(マインド)からこうした心理的な充足感を求める気持ちが一掃されるといかなる分離感も、自己という感覚も消え去ります。心理的な充足感を求める気持ちというのは意識的、あるいは無意識的に蓄えられてきた記憶、すなわち長年の経験や根深い自己防衛本能とかによってつくり上げられてきた性癖からなっています。
この満足感を求める気持ちの原因となっているのが執着です。これらの個々の経験について「私は」とか「私が」という言葉が付け加えられることがなければ、そこにはもはや心理的な意味での「私」というものはなくなっていることでしょう。
従って、霊的なものを見出すためには、人は自分が何であるかを説明することを放棄しなければなりません。すなわち私はアメリカ人であるとかヨーロッパ人であるとか、私は白人であるとか褐色人種であるとか、あるいはキリスト教徒であるとかヒンズー教徒であるとか、などと言うことを、です。
これらは皆、神智学協会が排除しようと努めている人種、信条、性、カースト、肌の色などによる差別の言葉です。ほかにもまだあります。私は金持ちであるとか賢いとか、あるいは真理の求道者であるとか。しかし人がこうして自分自身を特定の名称で呼ぶということは、自分を分離した自己としての何かと同一視していることに他なりません。
ですから『バガヴァッド・ギーター』は、表面的にも潜在意識下においても、「私が楽しむ」とか「私がそれを楽しむ人である」とか、「私が行動する」とか「私が行動する人である」とかいうことを思ったり感じたりすることがなければ人は自由でいられるのだということを教えているのです。
人は行為をし続けてもよいのですが、その行為は決して「私の行為」とか「私が為すこと」などと見なされたり言われたりしてはなりません。そういうことをすることが、心(マインド)は、自分自身を他の生命から分離してバラバラにしておこうとするものすべてから解放されるようになるのです。このように自己を何かと同一視するような経験を放棄することが、新しい生活、すなわち霊的生活の始まりなのです。
物質界の物や経験に対する執着が完全に拭いさられたとき、心(マインド)は塵一つ無い鏡のようにきれいになって真実を映し出すことができるようになります。
人生の真実はいたる所にあります。それは生命を通して表れてくる意識の中に、あるいは一見生命がないように見える諸物の中にも内在しています。押しつけたり、要求したり、奪い取ったり、我が物にしたりしようとしている人に、人生が真実を伝えることはないでしょう。人生とは神聖なものですから敬意と謙虚さをもって近づかなければなりません。そうすれ人生のすべての神秘が明らかにされて、「真理の女神」は探求者をその幕屋に導き入れてくれることでしょう。
第一章 終わり
(第二章から第九章は書籍に掲載されています。)
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